2011年4月12日火曜日

自分というもの

小中学校では、授業参観がありました。

多分、1学期に1回程度の頻度だったと思います。

僕はその授業参観の日が、とても嫌いでした。

「今日の授業参観行くから」と親が言うと、決まって「わざわざ来なくていいよ」と拒否していた記憶があります。

テレビなどでは、親が来なくて悲しい、といった描写がたびたびありますが、なぜ悲しいのか全くわかりませんでした。むしろ見られなくてラッキーじゃないかと思っていたくらいです。

なぜこんなにも嫌なのか。考えてみると、僕はきっと自分というものを認めて欲しかったのだと思います。子供ながらに、子供は子供の役割をこなし、親は親の役割をこなすべきだと思っていました。
だから必要以上に、学校という「職場」に踏み込んで欲しくなかった、自分の姿を見られたくなかったのだと。

第一、親がわざわざ授業参観のために仕事を休むなんてナンセンスだと思っていました。むしろ、僕のことを見に来るくらいなら働いてくれと思っていました。そこにはやはり、自分の役割(仕事)を果たして欲しい、そして、僕を役割を与えられた一人の人間としてみて欲しかったのだと思います。

僕は親の職場で働いている姿を見たくありません。そこにいるのは、親ではなく、仕事をこなす人だからです。僕が知っている親としての彼らとは違う性質をもっている存在です。そのギャップを見たくないのです。多分働いている光景をみたら、あの人は本当に親なのか、と思ってしまうことでしょう。

そういったギャップを親にも見せたくなかった。それにわざわざ時間を削ることも嫌だった。
そもそも人間なんて、その場所によって態度が変わるものです。学校ではこういうキャラ、家では別のキャラ、サークルではまた違うキャラ・・・、その一つ一つが自分というものです。

だから、違う側面を見ようが、同じ側面を見ようが、その人はその人。

果たすべきを果たす、それでいいじゃないか。わざわざ違う側面を、有限の時間を割いてまで見る必要なんてないじゃないか、そう思うのです・・・。

でも、きっと子供姿がみたいという親の心なんでしょうがね。。。

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