何かひとつのことに注意を向けて,それについてひたすら考える.研究する.
何かに没頭するこは,良いことです.
でも,あまりにそればかりに傾倒していては,客観性を見失う恐れがあります.
そこで提案したいのが,社会に目を向けるべきである,ということです.
たとえば,僕たちのような大学にいて研究している学生で,工学系にいるから私は政治経済のことはしらなくていいや,というスタンスの人はわりと多いと思います.
他にも,目の前のことだけに一生懸命で,まわりの出来事に注意を払わない人もおそらく多いでしょう.
そういうスタンスではいけない.
なぜなら,現在の社会がどうなっていて,政治がどうなっていて,経済がどういう仕組みになっているのか,それらのトータルの側面をしらなければ,現在必要なことは何かという,本質が見えてこないと思うのです.
ちまたで話題のFaceBookを創設した彼も,今までこのようなSNSは無く,どのようなものが求められているのかを,わかっていて作ったはずです.もしそうでなければ,たまたまヒットしたことになりますが...
おそらく彼は,求められるサービスの本質を見抜いていたことでしょう.
彼に限らず,歴史上で有名になったサービスは,たいはんのものが,その時代にはなく,人々が求めていたものだったはずです.でなければ誰も見向きもしないでしょうし,はやらなかったはずです.
このように,なにかの本質を見抜くためには,社会の大局を読む必要があると考えます.
大学生だからこそ,世の中の動きに敏感であるべきです.
今の社会に求められているものは何なのか.
常に社会に目をむけ,自分はその中でどういう立ち位置でありたいのか.
表面ではなく,その中身を見抜く力はとても重要です.
そのためには,やはり様々なことを勉強しなければならないでしょう.
背景知識がなければ,思考はできないと僕は考えています.
独創的なアイディアは,既存のルールをしらなければでてこないでしょう.
そのためには,きちんと学ばなければならない.
もっと様々なことに目を向けて,学ぼうとする意欲は大切です.
まずはそのような姿勢を身につけることが重要だと思います.
そうすることで,今よりも多くのことを見ることができることでしょう.
僕はそう信じています.
情報系の大学院に通う学生のブログ。日ごろの研究に関することや、技術メモ、読んだ本のことなど、興味があることを色々書いていきます。導入方法などを中心にメモすることが多いとおもいます。
2011年6月29日水曜日
2011年6月8日水曜日
将棋とプログラム
最近ハマッている某将棋漫画があります.
『3月のライオン』(羽海野チカ,白泉社)という漫画です.
6月8日の現時点で,単行本は5巻まで出ています.
あまり宣伝めいたことをするのは嫌なので,あくまでも作品を読んで思ったことを書きたいと思います.
主人公はプロ棋士の5段.中学生でプロ棋士入りし,周囲からは天才と呼ばれる.
彼は高校を1年遅れて入りなおし,高校に通いながらプロ棋士として生活を送る毎日.
周囲からの期待と,自分の将来,なじめない高校生活,人間関係,それらのものと葛藤しながら自分の道を見出していく,というのがストーリーの大まかな流れでしょうか.
プロ棋士というものに焦点を当てています.
棋士は,トーナメントや○○戦といった試合をおこなうようです.
一番上が名人で,たいていの棋士はこの名人の位にたどりつくように切磋琢磨するわけです.
試合がない日は,トレーニングをします.これは研究会などをおこなって,自分の手以外の方法をみんなで考えたりする,ディスカッションのようなものです.
ここで思ったのが,棋士とプログラマは似ているなーということでした.もっと広義に,エンジニアと呼んだほうがいいかもしれません.しかし,今はプログラマと呼ぶことにします.
プログラマも研究会をおこないます.
この業界は学生の僕でもわかるくらいに移ろいや技術の発達がめざましいです.
それについていくためには,当然勉強しなくてはいけない.
特にプログラマの場合は,一人で勉強するよりも様々な勉強会に参加した方が得るものが大きいと思います.
このように,日々プログラムの新しい技術や,自分のスキルの向上に努める姿は,棋士と大差ありません.
これは,プログラマだけにいえることではないのかもしれません.
一般的に, 知的作業,特に答えが見えないものなどは,ほとんどこのプロセスを経ていると思います.
将棋ができたのはだいぶ昔ですが,昔も今も知的作業の本質やプロセスはほとんど変わっていないということがわかりますね.
この漫画を読むと,自分の勉強に対するモチベーションがあがります.物事の類似点を探しながら漫画を読むのもまた面白いアプローチ方法のひとつだと思いました.
『3月のライオン』(羽海野チカ,白泉社)という漫画です.
6月8日の現時点で,単行本は5巻まで出ています.
あまり宣伝めいたことをするのは嫌なので,あくまでも作品を読んで思ったことを書きたいと思います.
主人公はプロ棋士の5段.中学生でプロ棋士入りし,周囲からは天才と呼ばれる.
彼は高校を1年遅れて入りなおし,高校に通いながらプロ棋士として生活を送る毎日.
周囲からの期待と,自分の将来,なじめない高校生活,人間関係,それらのものと葛藤しながら自分の道を見出していく,というのがストーリーの大まかな流れでしょうか.
プロ棋士というものに焦点を当てています.
棋士は,トーナメントや○○戦といった試合をおこなうようです.
一番上が名人で,たいていの棋士はこの名人の位にたどりつくように切磋琢磨するわけです.
試合がない日は,トレーニングをします.これは研究会などをおこなって,自分の手以外の方法をみんなで考えたりする,ディスカッションのようなものです.
ここで思ったのが,棋士とプログラマは似ているなーということでした.もっと広義に,エンジニアと呼んだほうがいいかもしれません.しかし,今はプログラマと呼ぶことにします.
プログラマも研究会をおこないます.
この業界は学生の僕でもわかるくらいに移ろいや技術の発達がめざましいです.
それについていくためには,当然勉強しなくてはいけない.
特にプログラマの場合は,一人で勉強するよりも様々な勉強会に参加した方が得るものが大きいと思います.
このように,日々プログラムの新しい技術や,自分のスキルの向上に努める姿は,棋士と大差ありません.
これは,プログラマだけにいえることではないのかもしれません.
一般的に, 知的作業,特に答えが見えないものなどは,ほとんどこのプロセスを経ていると思います.
将棋ができたのはだいぶ昔ですが,昔も今も知的作業の本質やプロセスはほとんど変わっていないということがわかりますね.
この漫画を読むと,自分の勉強に対するモチベーションがあがります.物事の類似点を探しながら漫画を読むのもまた面白いアプローチ方法のひとつだと思いました.
2011年5月10日火曜日
先入観
英語では,日本語の「です」や「ます」といった,敬語に直接的に該当する言葉がありませんよね.
もちろん,丁寧な表現はあります.たとえば,Could you ~や, Would you ~など.
でも,これは一部であって,日本語の敬語に対応付けできるような表現を,英語は持ち合わせていないように思われます.
映画やテレビのインタビューなどでは,たいていの場合は,英語で話している内容に対する日本語の字幕が画面上にでるはずです.
アメリカ人などで多いのは,
「~したんだ」とか,「~は最高さ!」
みたいな,わりとフランクな言葉遣いで日本語字幕がついていることが多いですよね.
ここで私たちに,アメリカ人はこんな感じの性格(=フランク)なんだ,という先入観を与えてしまうような気がします.
これは,最初に述べた,敬語にあたる表現が英語にはないため,訳者が勝手につけているイメージにすぎません.実際には,そのアメリカ人は,とても謙虚な人で言葉遣いも丁寧かもしれません.しかし,メディアでは,フランクな雰囲気で日本語字幕がでてくるので,先入観をもってしまいます.
背景を考えれば,致し方ないことなのかもしれませんが,少なからず,イメージの植え付けは行われていることでしょう.
こういう先入観はこわいですね.それも,気づかないうちに埋め込まれたものは,気づきにくい.
客観視することは大切です.先入観など,ものごとを疑ってかかる姿勢はやはり重要だと思います.
もちろん,丁寧な表現はあります.たとえば,Could you ~や, Would you ~など.
でも,これは一部であって,日本語の敬語に対応付けできるような表現を,英語は持ち合わせていないように思われます.
映画やテレビのインタビューなどでは,たいていの場合は,英語で話している内容に対する日本語の字幕が画面上にでるはずです.
アメリカ人などで多いのは,
「~したんだ」とか,「~は最高さ!」
みたいな,わりとフランクな言葉遣いで日本語字幕がついていることが多いですよね.
ここで私たちに,アメリカ人はこんな感じの性格(=フランク)なんだ,という先入観を与えてしまうような気がします.
これは,最初に述べた,敬語にあたる表現が英語にはないため,訳者が勝手につけているイメージにすぎません.実際には,そのアメリカ人は,とても謙虚な人で言葉遣いも丁寧かもしれません.しかし,メディアでは,フランクな雰囲気で日本語字幕がでてくるので,先入観をもってしまいます.
背景を考えれば,致し方ないことなのかもしれませんが,少なからず,イメージの植え付けは行われていることでしょう.
こういう先入観はこわいですね.それも,気づかないうちに埋め込まれたものは,気づきにくい.
客観視することは大切です.先入観など,ものごとを疑ってかかる姿勢はやはり重要だと思います.
2011年4月26日火曜日
向上心のない奴は
夏目漱石の有名な作品といえば、『こころ』がありますよね。
主人公の友人のKの口癖に、
「向上心のないやつはバカだ」
という有名な言葉があります。
物語の展開はどうあれ、この言葉はどんな人にもあてはまると思います。
向上心がなければ、決して人間は進歩しません。
僕が大学に来て一番思ったことは、向上心のある人間がほとんどいない、ということでした。
もしかして、僕の出会った人達がたまたまそういう人だったのかはわかりません。しかし、周りをみると、目標に向かって突き進む人間は一握りです。
大体の人は、長かった受験勉強から開放され、遊びほうけます。1年生はまだ大学に慣れるので精一杯なので、そこまでではないでしょうが、それ以降の2年からはけっこう遊びまくってます。
それが悪いとはいいませんし、僕はいえません。
問題は、年次があがっても、いつまでもそういうぬるま湯につかっているような生活をしている人が多いことです。
彼らは一様にして、向上心が感じられません。
このままだとだめだとわかっていながら、やろうとしないのです。末期はだめだという自覚すらないようですが。
そうして日々をなあなあにすごしていく。気づいたときには、自分は4年間で何を得たのだろうか?と思う。
このくらいの年月がたつと、個人のレベルの差がとても激しくなっています。
残念ながら、情報系の学科にいながら、プログラミング言語をまともに扱えない人もいます。
その学科にいながら、自分の専門分野に対するアンテナが張られていない。
客観的に見れば、別にいろいろな考えの人がいるのだからどうしようと個人の自由だということはわかります。
しかし、僕個人の意見を言わせてもらうと、そういう甘い考えの人はナンセンスですね。
困ったら人に頼むはよいことだが、自分で考えたり調べたりすればできるものを安易に人に聞くのは、まったくもってナンセンスです。あまりに大事なことなので2回いいました。
PCを前にして、その言葉ってどういう意味ですか?とか、もはやあきれを通り越しますよ。あなたの目の前にあるのはなんですか?ってききたい。いっそインターネットってなんのためにあるのかな?という質問からはじめないとだめそうですね。ゲームするためじゃないよ。くだらないコミュニティに属して他人と馴れ合うためのものでもない。
・・・このネタを書くと、つい感情的になってしまいます。この文章もあまり客観的ではなくなってしまいました。しかもしり切れトンボになってる。でも、たまにはいいたいこと書いていいや。
そういう人達に言いたい。
「向上心のないやつはバカだ」
主人公の友人のKの口癖に、
「向上心のないやつはバカだ」
という有名な言葉があります。
物語の展開はどうあれ、この言葉はどんな人にもあてはまると思います。
向上心がなければ、決して人間は進歩しません。
僕が大学に来て一番思ったことは、向上心のある人間がほとんどいない、ということでした。
もしかして、僕の出会った人達がたまたまそういう人だったのかはわかりません。しかし、周りをみると、目標に向かって突き進む人間は一握りです。
大体の人は、長かった受験勉強から開放され、遊びほうけます。1年生はまだ大学に慣れるので精一杯なので、そこまでではないでしょうが、それ以降の2年からはけっこう遊びまくってます。
それが悪いとはいいませんし、僕はいえません。
問題は、年次があがっても、いつまでもそういうぬるま湯につかっているような生活をしている人が多いことです。
彼らは一様にして、向上心が感じられません。
このままだとだめだとわかっていながら、やろうとしないのです。末期はだめだという自覚すらないようですが。
そうして日々をなあなあにすごしていく。気づいたときには、自分は4年間で何を得たのだろうか?と思う。
このくらいの年月がたつと、個人のレベルの差がとても激しくなっています。
残念ながら、情報系の学科にいながら、プログラミング言語をまともに扱えない人もいます。
その学科にいながら、自分の専門分野に対するアンテナが張られていない。
客観的に見れば、別にいろいろな考えの人がいるのだからどうしようと個人の自由だということはわかります。
しかし、僕個人の意見を言わせてもらうと、そういう甘い考えの人はナンセンスですね。
困ったら人に頼むはよいことだが、自分で考えたり調べたりすればできるものを安易に人に聞くのは、まったくもってナンセンスです。あまりに大事なことなので2回いいました。
PCを前にして、その言葉ってどういう意味ですか?とか、もはやあきれを通り越しますよ。あなたの目の前にあるのはなんですか?ってききたい。いっそインターネットってなんのためにあるのかな?という質問からはじめないとだめそうですね。ゲームするためじゃないよ。くだらないコミュニティに属して他人と馴れ合うためのものでもない。
・・・このネタを書くと、つい感情的になってしまいます。この文章もあまり客観的ではなくなってしまいました。しかもしり切れトンボになってる。でも、たまにはいいたいこと書いていいや。
そういう人達に言いたい。
「向上心のないやつはバカだ」
2011年4月20日水曜日
地球から月まで
けっこう有名な話ですが,地球から月までの距離は,0.1mmの厚さの折り紙を42回ほど折ったときの厚さと同じくらいだそうです.
確かこの話は,小学校のころの算数のテストのコラムみたいなところに載っていたような気がします.よく覚えてるなーと自分の記憶に感心しつつ,実際に計算をしてみました.
折り紙の厚さが0.1mmの仮定なので,
のように,数列であらわされるので,n回目の厚さを計算します.細かい計算は省略.高校の数学が使えれば結構楽に計算式はでます.
そして最後に累乗計算がありますが,これは以前作った累乗計算の高速化プログラムに突っ込んで計算してみました(役にたってよかった...).
計算結果によると,n = 42 で,約44万km.
たぶん計算あってるよね・・・?
ということで,42回で地球と月の距離を上回る厚さになりました.
検証の結果,折り紙の話は正しいということですね.
さて,この結果から感じたのは,月と地球の距離よりもむしろ,高々42回の累乗計算で,爆発的に数値が大きくなる事実の方が驚きでした.
爆発的な計算量になるのは,NP完全の問題やらにかかわってくる,計算分野の鬼門ですね...
確かこの話は,小学校のころの算数のテストのコラムみたいなところに載っていたような気がします.よく覚えてるなーと自分の記憶に感心しつつ,実際に計算をしてみました.
折り紙の厚さが0.1mmの仮定なので,
- 0回折ると0.1mm
- 1回折ると0.2mm
- 2回折ると0.4mm
- n回折ると,○○mm
のように,数列であらわされるので,n回目の厚さを計算します.細かい計算は省略.高校の数学が使えれば結構楽に計算式はでます.
そして最後に累乗計算がありますが,これは以前作った累乗計算の高速化プログラムに突っ込んで計算してみました(役にたってよかった...).
計算結果によると,n = 42 で,約44万km.
たぶん計算あってるよね・・・?
ということで,42回で地球と月の距離を上回る厚さになりました.
検証の結果,折り紙の話は正しいということですね.
さて,この結果から感じたのは,月と地球の距離よりもむしろ,高々42回の累乗計算で,爆発的に数値が大きくなる事実の方が驚きでした.
爆発的な計算量になるのは,NP完全の問題やらにかかわってくる,計算分野の鬼門ですね...
2011年4月18日月曜日
緊張感をもつということ
院生にもなってくると,だんだん実家に帰る機会が減ってきます.
地元を出てもう4年たちましたが,年がたつにつれて特別な用がない限り,実家へ帰るということはしなくなりました.
実家に帰ると楽ですが,その代わり,つい,だらけてしまいます.実家ではなにもやることがない.でも,こっちに帰ってくると,常にやることがある.
帰りたくない理由として,緊張感がない状態が続くことが挙げられます.僕はどうやら,常に緊張感をもっていたい人のようです.追い込まずにはいられない.だから,ぬるいところにとどまりたくないという気持ちがあります.
たまには,何も考えずにいる時間も大事です.実家に帰ってゆっくりしてもいいでしょう.でも,それは少しの時間で良い.ちょっと立ち止まったらまた走り出す.それでいいのです.
やはり,追い立てられる状況がなければ,どうしてもだらけてしまうのが人間です.特に僕は,かなりの面倒くさがりです.だから,少し厳しい状態に置いたほうが良いのだと思います.
そんな理由をつけて,今年もほとんど実家に帰らないんだろうなぁ.別に嫌いなわけじゃないんですけどね.
でも,きっと今は歩みを止めたくないんでしょう.これからもそのつもりです.
地元を出てもう4年たちましたが,年がたつにつれて特別な用がない限り,実家へ帰るということはしなくなりました.
実家に帰ると楽ですが,その代わり,つい,だらけてしまいます.実家ではなにもやることがない.でも,こっちに帰ってくると,常にやることがある.
帰りたくない理由として,緊張感がない状態が続くことが挙げられます.僕はどうやら,常に緊張感をもっていたい人のようです.追い込まずにはいられない.だから,ぬるいところにとどまりたくないという気持ちがあります.
たまには,何も考えずにいる時間も大事です.実家に帰ってゆっくりしてもいいでしょう.でも,それは少しの時間で良い.ちょっと立ち止まったらまた走り出す.それでいいのです.
やはり,追い立てられる状況がなければ,どうしてもだらけてしまうのが人間です.特に僕は,かなりの面倒くさがりです.だから,少し厳しい状態に置いたほうが良いのだと思います.
そんな理由をつけて,今年もほとんど実家に帰らないんだろうなぁ.別に嫌いなわけじゃないんですけどね.
でも,きっと今は歩みを止めたくないんでしょう.これからもそのつもりです.
2011年4月12日火曜日
自分というもの
小中学校では、授業参観がありました。
多分、1学期に1回程度の頻度だったと思います。
僕はその授業参観の日が、とても嫌いでした。
「今日の授業参観行くから」と親が言うと、決まって「わざわざ来なくていいよ」と拒否していた記憶があります。
テレビなどでは、親が来なくて悲しい、といった描写がたびたびありますが、なぜ悲しいのか全くわかりませんでした。むしろ見られなくてラッキーじゃないかと思っていたくらいです。
なぜこんなにも嫌なのか。考えてみると、僕はきっと自分というものを認めて欲しかったのだと思います。子供ながらに、子供は子供の役割をこなし、親は親の役割をこなすべきだと思っていました。
だから必要以上に、学校という「職場」に踏み込んで欲しくなかった、自分の姿を見られたくなかったのだと。
第一、親がわざわざ授業参観のために仕事を休むなんてナンセンスだと思っていました。むしろ、僕のことを見に来るくらいなら働いてくれと思っていました。そこにはやはり、自分の役割(仕事)を果たして欲しい、そして、僕を役割を与えられた一人の人間としてみて欲しかったのだと思います。
僕は親の職場で働いている姿を見たくありません。そこにいるのは、親ではなく、仕事をこなす人だからです。僕が知っている親としての彼らとは違う性質をもっている存在です。そのギャップを見たくないのです。多分働いている光景をみたら、あの人は本当に親なのか、と思ってしまうことでしょう。
そういったギャップを親にも見せたくなかった。それにわざわざ時間を削ることも嫌だった。
そもそも人間なんて、その場所によって態度が変わるものです。学校ではこういうキャラ、家では別のキャラ、サークルではまた違うキャラ・・・、その一つ一つが自分というものです。
だから、違う側面を見ようが、同じ側面を見ようが、その人はその人。
果たすべきを果たす、それでいいじゃないか。わざわざ違う側面を、有限の時間を割いてまで見る必要なんてないじゃないか、そう思うのです・・・。
でも、きっと子供姿がみたいという親の心なんでしょうがね。。。
多分、1学期に1回程度の頻度だったと思います。
僕はその授業参観の日が、とても嫌いでした。
「今日の授業参観行くから」と親が言うと、決まって「わざわざ来なくていいよ」と拒否していた記憶があります。
テレビなどでは、親が来なくて悲しい、といった描写がたびたびありますが、なぜ悲しいのか全くわかりませんでした。むしろ見られなくてラッキーじゃないかと思っていたくらいです。
なぜこんなにも嫌なのか。考えてみると、僕はきっと自分というものを認めて欲しかったのだと思います。子供ながらに、子供は子供の役割をこなし、親は親の役割をこなすべきだと思っていました。
だから必要以上に、学校という「職場」に踏み込んで欲しくなかった、自分の姿を見られたくなかったのだと。
第一、親がわざわざ授業参観のために仕事を休むなんてナンセンスだと思っていました。むしろ、僕のことを見に来るくらいなら働いてくれと思っていました。そこにはやはり、自分の役割(仕事)を果たして欲しい、そして、僕を役割を与えられた一人の人間としてみて欲しかったのだと思います。
僕は親の職場で働いている姿を見たくありません。そこにいるのは、親ではなく、仕事をこなす人だからです。僕が知っている親としての彼らとは違う性質をもっている存在です。そのギャップを見たくないのです。多分働いている光景をみたら、あの人は本当に親なのか、と思ってしまうことでしょう。
そういったギャップを親にも見せたくなかった。それにわざわざ時間を削ることも嫌だった。
そもそも人間なんて、その場所によって態度が変わるものです。学校ではこういうキャラ、家では別のキャラ、サークルではまた違うキャラ・・・、その一つ一つが自分というものです。
だから、違う側面を見ようが、同じ側面を見ようが、その人はその人。
果たすべきを果たす、それでいいじゃないか。わざわざ違う側面を、有限の時間を割いてまで見る必要なんてないじゃないか、そう思うのです・・・。
でも、きっと子供姿がみたいという親の心なんでしょうがね。。。
2011年3月31日木曜日
終わる3月、始まる新学期
なんかアニメのタイトルみたいになっちゃった。
えー、とりあえず今日で3月も終わりですね。
いよいよ明日から新学期が始まります。
震災の影響で、授業開始や就職が遅れる人も多いようですね。僕の大学も、一ヶ月遅れて講義が始まります。その代わり、夏休みが一ヶ月減ってしまうようです。
残念ながら、研究室に配属されている人にはあまり関係ないですけどね。
逆に、この一ヶ月の時間の使い方が重要になってきそうです。
研究をなるべく進めて、煮詰めた方が絶対いい。これは逆に好機かもしれません。
そうそう、書いてて気づいたんですが、Blogのわりに全然日記書いてないですね。むしろエッセイになってたという。
まぁ、BlogなんてWeb logからきてるんで、日記かかなきゃいけない理由もないんですけど。
というか正直な話、他人の日記見てたのしいかなぁと思っちゃうんですよね。
その人の1日の行動を書くより、その人が物事に対してどういう考えを持っているかの方が、見てて楽しいと思います。少なくとも僕はそうです。
それは置いといて。
新学期といっても同じ研究室ですし、特に新しいことはありません。強いて言うなら、メンバーが少し新しくなることでしょうか。
でも相変わらず自分のスタンスを貫くまでですね。
周りにどう思われようとも、自分が納得できるような生き方をしたいんです。そのためだったら、他の人を敵に回してもいい。それくらいの気持ちです。
人生は一回きり。死んだらそこで終わりです。僕は仏教的な輪廻転生も信じていませんし、天国や地獄があるとも思えません。死んだら、僕を構成している原子は地に還ることでしょう。そして、自分という意識もなくなる。本当に終わりです。でもそれでいいと思います。だからこそ、一回きりの人生を精一杯生きたいという感情が強くなる。ただそれだけです。
メメントモリ
この言葉を常に心にとどめておきながら、生活したいと思います。
えー、とりあえず今日で3月も終わりですね。
いよいよ明日から新学期が始まります。
震災の影響で、授業開始や就職が遅れる人も多いようですね。僕の大学も、一ヶ月遅れて講義が始まります。その代わり、夏休みが一ヶ月減ってしまうようです。
残念ながら、研究室に配属されている人にはあまり関係ないですけどね。
逆に、この一ヶ月の時間の使い方が重要になってきそうです。
研究をなるべく進めて、煮詰めた方が絶対いい。これは逆に好機かもしれません。
そうそう、書いてて気づいたんですが、Blogのわりに全然日記書いてないですね。むしろエッセイになってたという。
まぁ、BlogなんてWeb logからきてるんで、日記かかなきゃいけない理由もないんですけど。
というか正直な話、他人の日記見てたのしいかなぁと思っちゃうんですよね。
その人の1日の行動を書くより、その人が物事に対してどういう考えを持っているかの方が、見てて楽しいと思います。少なくとも僕はそうです。
それは置いといて。
新学期といっても同じ研究室ですし、特に新しいことはありません。強いて言うなら、メンバーが少し新しくなることでしょうか。
でも相変わらず自分のスタンスを貫くまでですね。
周りにどう思われようとも、自分が納得できるような生き方をしたいんです。そのためだったら、他の人を敵に回してもいい。それくらいの気持ちです。
人生は一回きり。死んだらそこで終わりです。僕は仏教的な輪廻転生も信じていませんし、天国や地獄があるとも思えません。死んだら、僕を構成している原子は地に還ることでしょう。そして、自分という意識もなくなる。本当に終わりです。でもそれでいいと思います。だからこそ、一回きりの人生を精一杯生きたいという感情が強くなる。ただそれだけです。
メメントモリ
この言葉を常に心にとどめておきながら、生活したいと思います。
2011年3月30日水曜日
合理的な人間
世の中には合理的な人間と感情的な人間がいます。
ここで取り上げたいのは、合理的な人間の方です。
紀元前から現代に至るまで、人間の営みは変容してきました。
まだ多くの人間が、呪術や宗教的なものを信じていた時代では、合理的という考えはなかなかでてこなかったのはわかります。
時代は変わり、人間はどんどん進化を遂げてきました。特に目覚しいのは科学技術の発展でしょう。現代は電気がなくては成り立ちません。電気も科学技術の発展とともに発明されたものです。私たちはその恩恵をうけています。
先ごろの東北関東大震災では、多くの地域が停電し、日々の生活に異常をきたしました。
実際、僕もそのときに停電を経験したので、電気のありがたみは身にしみてわかりました。
さて、こうした科学技術が発展すると同時に、合理主義者と呼ばれる人たちが現れてきました。
合理主義は、近代を代表する主義のひとつでしょう(違ってたらごめんなさい)。
物事を論理的に考え、合理的に処理していく。
これは、まさに現代の文化ですね。
科学と合理化は表裏一体なのでしょう。
自分が感情的な人間か合理的な人間かと聞かれれば、間違いなく後者です。大学も工学を専攻していますし、当然のことながら、思考パターンも合理的になります。僕はちいさい頃から合理的な人間の方でしたけれど・・・。
工学部にいる人たちは合理的な人が多いと思っていました。しかし、そうではなかった。意外と非効率的な人が多い。おまけに感情的になり、議論にならない人もけっこういます。あげくのはてには、議論から逃げ出す、私はよくわからないからいいやというようなことを言う人もいます。
けっきょくは、専攻がどうだからというわけではなく、その人の性格の部分も大きい気がします。身も蓋もない話ですけれども。
一番おかしな話は、そういった合理主義者は嫌われる傾向があるということです。これは経験上の話です。
何か言っても、「また屁理屈を」みたいなことを言われる。
早く作業を終わらせたり、必要のないものは省けばいいのに、「それは慣例だから」「ずっとやってきた決まりだから」とか言って、意味のない作業をする。紙に印刷しないで、webで見ればいいものを、わざわざ印刷する。
世の中には、無駄なことが多すぎるきがしてなりません。慣例や慣習にとらわれすぎる日本の体制はとても奇妙です。
合理的な人間がひとたび出ると、一斉に出る杭を打とうとかかる。某会社の元社長もそうでしたね。あれは出る杭が打たれた代表だと思います。
感情的が悪いとはいいませんが、合理的な人間を「感情的」に排除するのはいただけません。それはおかしい。どうして、バランスをとれないのか。どうして、物事を冷静に見れないのか。
そういうことが出来ない限り、悲しいことに合理主義者は嫌われ続けるのかもしれません。
でも、本当の合理主義者はそんな感情的な人間にかまってる方が非効率だとわかってるので、相手にしないでしょうね。
僕が言いたいのは、感情的に合理主義を排除するのはやめて欲しいということです。少しは耳を傾けて、いいところは尊重するべきだと思います。
ここで取り上げたいのは、合理的な人間の方です。
紀元前から現代に至るまで、人間の営みは変容してきました。
まだ多くの人間が、呪術や宗教的なものを信じていた時代では、合理的という考えはなかなかでてこなかったのはわかります。
時代は変わり、人間はどんどん進化を遂げてきました。特に目覚しいのは科学技術の発展でしょう。現代は電気がなくては成り立ちません。電気も科学技術の発展とともに発明されたものです。私たちはその恩恵をうけています。
先ごろの東北関東大震災では、多くの地域が停電し、日々の生活に異常をきたしました。
実際、僕もそのときに停電を経験したので、電気のありがたみは身にしみてわかりました。
さて、こうした科学技術が発展すると同時に、合理主義者と呼ばれる人たちが現れてきました。
合理主義は、近代を代表する主義のひとつでしょう(違ってたらごめんなさい)。
物事を論理的に考え、合理的に処理していく。
これは、まさに現代の文化ですね。
科学と合理化は表裏一体なのでしょう。
自分が感情的な人間か合理的な人間かと聞かれれば、間違いなく後者です。大学も工学を専攻していますし、当然のことながら、思考パターンも合理的になります。僕はちいさい頃から合理的な人間の方でしたけれど・・・。
工学部にいる人たちは合理的な人が多いと思っていました。しかし、そうではなかった。意外と非効率的な人が多い。おまけに感情的になり、議論にならない人もけっこういます。あげくのはてには、議論から逃げ出す、私はよくわからないからいいやというようなことを言う人もいます。
けっきょくは、専攻がどうだからというわけではなく、その人の性格の部分も大きい気がします。身も蓋もない話ですけれども。
一番おかしな話は、そういった合理主義者は嫌われる傾向があるということです。これは経験上の話です。
何か言っても、「また屁理屈を」みたいなことを言われる。
早く作業を終わらせたり、必要のないものは省けばいいのに、「それは慣例だから」「ずっとやってきた決まりだから」とか言って、意味のない作業をする。紙に印刷しないで、webで見ればいいものを、わざわざ印刷する。
世の中には、無駄なことが多すぎるきがしてなりません。慣例や慣習にとらわれすぎる日本の体制はとても奇妙です。
合理的な人間がひとたび出ると、一斉に出る杭を打とうとかかる。某会社の元社長もそうでしたね。あれは出る杭が打たれた代表だと思います。
感情的が悪いとはいいませんが、合理的な人間を「感情的」に排除するのはいただけません。それはおかしい。どうして、バランスをとれないのか。どうして、物事を冷静に見れないのか。
そういうことが出来ない限り、悲しいことに合理主義者は嫌われ続けるのかもしれません。
でも、本当の合理主義者はそんな感情的な人間にかまってる方が非効率だとわかってるので、相手にしないでしょうね。
僕が言いたいのは、感情的に合理主義を排除するのはやめて欲しいということです。少しは耳を傾けて、いいところは尊重するべきだと思います。
2011年3月29日火曜日
読むこと
僕は読書が好きです。
でも、手段としての読書が好きなだけで、目的のための読書は好きではありません。
読書というのは本来、知識を得るためのツールのひとつだったはずです。しかし、1ヶ月○冊読む!なんていうのを掲げている人がたまにいます。もしかしたらけっこう多いのかもしれない。
ここで一つ言及したいのは、読書が目的になっているということです。「本を読む」という行為が最終目的となっている。
確かに、それはいいじゃないか、読まないよりは読んでいる方が良い、読むことが好きなんだ、という意見もあるでしょう。その意見は否定しませんし、それはそれでいいと思います。
しかし、僕自身はそういう「読書」に目的を求めたくないのです。本を読み、そこに書かれている情報を選択し、自分の考えを深めていくための材料とする。それこそが、読書の意義だと思うのです。
最近ではAmazonが出したKindle(残念ながら日本向けではない)や、Apple社のiPadといった、デジタル機器で本を読む、電子書籍も頭角を現してきました。
これらのデジタル機器は、当然紙を使いません。データの集合体です。そこにあるのは情報のみです。
この電子書籍の流れは、合理化を追求する現代社会において、効率的に知識を得るための手段としては当然といえば当然の方法だと思います。そこには紙の質感もないし、本の重さも存在しない。あるのは2進数であらわされた数字の羅列にすぎません。 情報(知識)を得ることに特化した方法です。
現在の流れは、ある意味、本来の読書の目的を果たしていると思います。知識を得るための手段としての読書に、こんなにもふさわしい方法は今のところないように思えます。
だからといって、紙媒体が悪いわけではないですけどね。
話が脱線しましたが、ただ僕は上述したように、読書が手段ではなく目的になっているということに関して、懐疑的な立場にあるということです。
でも、手段としての読書が好きなだけで、目的のための読書は好きではありません。
読書というのは本来、知識を得るためのツールのひとつだったはずです。しかし、1ヶ月○冊読む!なんていうのを掲げている人がたまにいます。もしかしたらけっこう多いのかもしれない。
ここで一つ言及したいのは、読書が目的になっているということです。「本を読む」という行為が最終目的となっている。
確かに、それはいいじゃないか、読まないよりは読んでいる方が良い、読むことが好きなんだ、という意見もあるでしょう。その意見は否定しませんし、それはそれでいいと思います。
しかし、僕自身はそういう「読書」に目的を求めたくないのです。本を読み、そこに書かれている情報を選択し、自分の考えを深めていくための材料とする。それこそが、読書の意義だと思うのです。
最近ではAmazonが出したKindle(残念ながら日本向けではない)や、Apple社のiPadといった、デジタル機器で本を読む、電子書籍も頭角を現してきました。
これらのデジタル機器は、当然紙を使いません。データの集合体です。そこにあるのは情報のみです。
この電子書籍の流れは、合理化を追求する現代社会において、効率的に知識を得るための手段としては当然といえば当然の方法だと思います。そこには紙の質感もないし、本の重さも存在しない。あるのは2進数であらわされた数字の羅列にすぎません。 情報(知識)を得ることに特化した方法です。
現在の流れは、ある意味、本来の読書の目的を果たしていると思います。知識を得るための手段としての読書に、こんなにもふさわしい方法は今のところないように思えます。
だからといって、紙媒体が悪いわけではないですけどね。
話が脱線しましたが、ただ僕は上述したように、読書が手段ではなく目的になっているということに関して、懐疑的な立場にあるということです。
一期一会
卒業式が終わりました。僕の大学では、今年は震災の影響で卒業式は中止になり、そのかわりに学位の授与だけが行われました。参加じたいは任意でしたが。
震災のため、予定していた行事がけっこう中止になりました。僕らが計画していた卒業旅行も中止になってしまたため、最後に思い出らしい思い出を作る機会がなくなってしまったことがとても心残りです。
思えば、今までつるんでいた連中と出会ったきっかけなんて、些細なものだったし、別れ際もこんな感じであっさりしていていいのかもしれません。
僕自身は卒業式や入学式といったセレモニーが嫌いだし、必要性は感じません。なぜなら、そこで得られるものは無いからです。ただの儀式、しかも生産性がない。入学式や卒業式なんてしないで、今日から大学生、来月からは社会人、それでいいじゃないかと思うのです。だから今回の中止はある意味、都合はよかった。
思い出というのは、しょせんはプロセスの中にしか見出すことができないと思います。だから今まで過ごしたプロセスこそが大事なんだと思うのです。式という儀式をやることで、区切りをつけて、思い出の連続性を断つのは好きじゃない。
別れるときは、「じゃあまた」と言うようにしています。生きてる限り、会おうとすれば会えます。ただ、今までのように、自由な時間がとりにくくなるというだけのことです。まして、このご時勢、インターネットなどの通信手段も豊富にあり、タイムラグもありません。僕らはネットワーク上で、リアルタイムに「会って」話すことができる。だから寂しさありません。
ふとしたことで知り合い、そして気づいたら離れていく。そういう一期一会が僕はとても好きです。
これから春が始まります。東北の春はまだ少し遠そうですが、着実に春めいてきているのがわかります。新生活はいったいどうなるのだろうか、一割の不安と九割の期待で構成される自分にこれからどのようなことがおこるのか楽しみです。
就職する友人たちには、どうか良い人生になることを望みます。
これからも一期一会の精神で。
Life goes on.
震災のため、予定していた行事がけっこう中止になりました。僕らが計画していた卒業旅行も中止になってしまたため、最後に思い出らしい思い出を作る機会がなくなってしまったことがとても心残りです。
思えば、今までつるんでいた連中と出会ったきっかけなんて、些細なものだったし、別れ際もこんな感じであっさりしていていいのかもしれません。
僕自身は卒業式や入学式といったセレモニーが嫌いだし、必要性は感じません。なぜなら、そこで得られるものは無いからです。ただの儀式、しかも生産性がない。入学式や卒業式なんてしないで、今日から大学生、来月からは社会人、それでいいじゃないかと思うのです。だから今回の中止はある意味、都合はよかった。
思い出というのは、しょせんはプロセスの中にしか見出すことができないと思います。だから今まで過ごしたプロセスこそが大事なんだと思うのです。式という儀式をやることで、区切りをつけて、思い出の連続性を断つのは好きじゃない。
別れるときは、「じゃあまた」と言うようにしています。生きてる限り、会おうとすれば会えます。ただ、今までのように、自由な時間がとりにくくなるというだけのことです。まして、このご時勢、インターネットなどの通信手段も豊富にあり、タイムラグもありません。僕らはネットワーク上で、リアルタイムに「会って」話すことができる。だから寂しさありません。
ふとしたことで知り合い、そして気づいたら離れていく。そういう一期一会が僕はとても好きです。
これから春が始まります。東北の春はまだ少し遠そうですが、着実に春めいてきているのがわかります。新生活はいったいどうなるのだろうか、一割の不安と九割の期待で構成される自分にこれからどのようなことがおこるのか楽しみです。
就職する友人たちには、どうか良い人生になることを望みます。
これからも一期一会の精神で。
Life goes on.
2011年3月26日土曜日
あこがれのキャンパスライフ
僕はちいさい頃から、大学という生活にあこがれていました。テレビにうつるドラマやニュースでは、華やかな大学生活が描かれています。いわゆる、ばら色のキャンパスライフってやつですね。(古臭い言い回しですが、僕はまだ22歳です。)
多くの人は、初めて一人暮らしするわけです。今まではずっとルールの厳しい世界での生活をしていましたよね。小学校はガチガチの規則、中学校は財布や時計を持ってきても良くなり、高校では売店で昼食をとることができるようになる。このように、だんだんルールは少なくなっていきますが、それでもやはり、自分が誰かに管理されているという印象が強いと思います。
そういうしがらみから開放されるのが大学生です。親元を離れて、自分で自分を管理することになります。自分の好きなようにできるってとても楽しいことです。
さらに、二十歳という大人にもなります。少なくとも日本では、大学時代に二十歳を超えることが多いはずです。できることが増えて楽しくてしょうがないですね。お酒は飲み放題、時間はあるから夜遅くまで遊び放題、講義には気が向いたときにでる・・・というように、あげだすときりがないほど大学生活は楽しいものだと思います。
少なくとも、大学に入るまではそう思っていました。
現在、僕は大学生です。学部は工学部。今年卒業して、来年度からは同じ大学の大学院の工学研究科に所属することになります。かれこれもう4年も大学にいます。
この4年間で感じたことは、上記のような「キャンパスライフ」なるものは幻想だったということです。工学部だし、男が多くむさくるしい。しかも僕の大学は、工学部のキャンパスとそのほかのキャンパスが 道路を隔てており、若干隔離されてる感があります。この立地のおかげかもしれませんが、工学部以外のキャンパスに行くと異様に落ち着かない。あっちの世界はまさに「ばら色のキャンパスライフ」が繰り広げられている。
ちなみにここでいう「ばら色」は、豚バラ肉とかのバラではなく、flowerの方のばらです。
僕らのように4年間工学部ですごした人間のほとんどが、あちら側へ行くことへの拒否反応がおこります。面白いですね。当人たちは全然おもしろくないです。
つまり、工学部の人間にはそういう世界はあまり関わりがないということです。悲しいですね。その中にも多少ですがリア充はいますよ。ほんとに多少ですが。
でも毎日実験や研究やレポートや課題をみんなで協力していくのは、けっこう楽しかったりもするんですけどね。
そんなこんなで、あこがれのキャンパスライフとはπほどずれた位置にいますが、それはそれで楽しいよってことです。
微妙なまとめだった。おしまい。
多くの人は、初めて一人暮らしするわけです。今まではずっとルールの厳しい世界での生活をしていましたよね。小学校はガチガチの規則、中学校は財布や時計を持ってきても良くなり、高校では売店で昼食をとることができるようになる。このように、だんだんルールは少なくなっていきますが、それでもやはり、自分が誰かに管理されているという印象が強いと思います。
そういうしがらみから開放されるのが大学生です。親元を離れて、自分で自分を管理することになります。自分の好きなようにできるってとても楽しいことです。
さらに、二十歳という大人にもなります。少なくとも日本では、大学時代に二十歳を超えることが多いはずです。できることが増えて楽しくてしょうがないですね。お酒は飲み放題、時間はあるから夜遅くまで遊び放題、講義には気が向いたときにでる・・・というように、あげだすときりがないほど大学生活は楽しいものだと思います。
少なくとも、大学に入るまではそう思っていました。
現在、僕は大学生です。学部は工学部。今年卒業して、来年度からは同じ大学の大学院の工学研究科に所属することになります。かれこれもう4年も大学にいます。
この4年間で感じたことは、上記のような「キャンパスライフ」なるものは幻想だったということです。工学部だし、男が多くむさくるしい。しかも僕の大学は、工学部のキャンパスとそのほかのキャンパスが 道路を隔てており、若干隔離されてる感があります。この立地のおかげかもしれませんが、工学部以外のキャンパスに行くと異様に落ち着かない。あっちの世界はまさに「ばら色のキャンパスライフ」が繰り広げられている。
ちなみにここでいう「ばら色」は、豚バラ肉とかのバラではなく、flowerの方のばらです。
僕らのように4年間工学部ですごした人間のほとんどが、あちら側へ行くことへの拒否反応がおこります。面白いですね。当人たちは全然おもしろくないです。
つまり、工学部の人間にはそういう世界はあまり関わりがないということです。悲しいですね。その中にも多少ですがリア充はいますよ。ほんとに多少ですが。
でも毎日実験や研究やレポートや課題をみんなで協力していくのは、けっこう楽しかったりもするんですけどね。
そんなこんなで、あこがれのキャンパスライフとはπほどずれた位置にいますが、それはそれで楽しいよってことです。
微妙なまとめだった。おしまい。
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